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法人設立32年

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今日は5月30日 当社は1990年5月30日に法人設立しまして 今日で32年。 1990年、僕は28歳です。田舎に帰ってきて丸三年。結婚して丸一年経過して 友見子はちょうど子供を身籠ったタイミングでした。 前もお話しましたが 法人化は全て当時の社長の父がやってまして 僕も家族に聞いてもあまり記憶がないです。 「社名をどうするか?」は父から相談を受けたのを今でも覚えてます。 いくつか候補があって最終 二人で決めたように覚えてます。 僕自身は法人化する必要性も感じて無く へぇ会社にするんか?という感じでしたが 父親はもっと早く法人化しとけば良かったような話もしてましたので前々から考えてて そのタイミングにしたのかなと思います。 法人化してなかったら よくあるパターンですが、家族経営から脱皮出来てなかったかもしれません。 先日 本社で見つかった書類の中に ナカヱ会 今の文化祭 の芳名帳(ほうめいちょう)を見つけました。 第一回の開催が法人化したその年の11月21日水曜日に開催してました。 今は閉業してますが、白浜の十河(そごう)というホテルで開催し 父親の知り合いのお嬢さんが若女将をされていてとても丁重にお迎えいただいたのを今でも覚えてます。問屋さん4社と メーカー5社くらい来てっもらって開催してました。 その後 6回くらい開催して中断し 再開したのが 2008年でした。 その時の両親の様子を 昨日、初めて妹に聞いたのですが ナカヱ会が再開した時は ホテル ベイ古賀の井で開催したらしく そのときは 両親も参加して 父親が母に着ていく服を新調したり 当日はこういう風に来てくれる方にご挨拶しろよと打ち合わせしていた様子でした。とても再開を喜んでくれていたようです。

他との比較にばかり意識がいくと

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また学生時代の話になりますが 大学 1年・2年・3年の時 なかなかレギュラーが取れない事が多かったです。 特に選手の人数が少ない試合では 部内で競争に勝ち残らないとレギュラーになれません。5人団体戦・6人団体戦では控えには入れるけどギリギリ選手になれない位置が下級生の頃は特に多かったと思います。(8人団体になると どういうわけか ほぼレギュラー選手に選ばれてましたけど。) 4年生になると どういうわけかそれがなくなりました。意識が部内の競争より 別の部分に移ったからなのか より自分に向き合えたからなのか・・そんなところだと思います。 指導者として学生を見ていた時も そういう選手が いつも居ました。5人団体の試合だと7番目、8人の試合になると10番目くらいで毎回 試合に出れない。レギュラーの位置をとれない。 おそらく 部内の競争(他人との比較)にばかり意識がいってしまって 本来の事が疎かになってしまってる状態です。 逆に いつもレギュラーに成れる人 常に一軍の人はそもそも意識が部内競争にはいかない。他人との比較等しないで 如何に本番で結果を出すかに集中出来るのですが レギュラーポジションギリギリだと 先ずはレギュラーの位置を取りにいかないといけない。 普段の練習がレギュラーの位置を取りに行くことが目的になってしまい その過程で調子を崩したり 本番で力を発揮できなかったりするケースも多かったです。 『人と競争してる人は 自分の弓を追求してる人には勝てない』 これはスポーツだけじゃなく仕事でも言えることだと思います。 我々の商売にも同様なことが言えます。 他店舗と競争してる店舗は 自分達の商売を追求してる店舗には勝てない 他社との競争にばかり意識を取られている会社は お客様にしっかり向き合ってる会社に勝てない。

ネットで価値観が変わったタイミングの話。

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先週は ITリテラシーの話をしました。 高いに越したことはないし 苦手で済まされない。それはうちの会社だけのことじゃなくてこれから生活していく上で避けて通れないという話でした。 今日はネットで価値観の変わったタイミングの話。 30代前半だったか 世の中にメールがようやく出てきた頃だったと思います。 それまでは社会人の個人が文章を書いてそれを多くの人が見る 見ていただける という機会が普通の人は無い時代でした。不思議だと思いますがまるで無い時代です。個人がテキスト・文章で発信できる機会はほぼ無い そんな時代でした。 やろうと思うと新聞に投稿するか雑誌に投稿する 手紙を書いても多くの人が見てくれるわけではないですし。 想像がつかないと思いますが そんな時代でした。 極端な言い方をすると とにかく文章をうまく書ける才能が何も生かされない時代だったと思います。 ごく一部の 本を出版する人 新聞記者 そんなプロ以外は文章を上手く書けたとしても活かせる場が無かった。 小学生なら作文をクラスで発表できましたが、社会人にはまずそんな機会がありません。 一般の人は日記を書くくらいです。 それとは逆に 人前で喋る 団体の中で喋る 挨拶をするという 人前で喋るという場面は今と同様ですが、今以上に価値はあった時代です。 僕も人前で上手に喋れる人はいいなぁと思ってました。おそらく誰しもが感じてた時代です。 喋れるというのは1つの大きな才能で しかも目立つ才能だったわけです。 僕自身はとてもコンプレックスがありました。 それが インターネットやメールの文化が生まれて 文章を上手に書ける人が 才能を活かせる世の中になってきました。 その時 「あ!これからは喋る以上に テキストで表現できる人が価値を持つ時代に変わってくる」 と感じました。価値観が変わってきてるぞ。ガラッと変わるぞ。そんな感覚がしてました。 今はブログ・Twitter・SNSなど 個人が情報発信できるのは当たり前ですが、昔は個人が情報発信なんて出来なかった時代。 その後、You Tubeなどの動画のサービスが出てきて また上手に喋れる という価値が高くなってきた。

デジタルデバイド ITリテラシーの高さは全員重要だよね〜という話。

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先日、ITリテラシーの重要性のお話をして なんでそれが高くないとダメなのか をどう説明しようかと考えてまして 次回の全体ミーティングでも少しお話をしようと思ってますが、これは当たり前の事で改めて言うまでもなく重要な点だと思います。 デジタルデバイド(情報格差) この言葉は2000年頃から言われてる言葉だそうです。情報格差 情弱という言葉もあるくらいで 強者と弱者が存在するということです。 インターネットやパソコン スマホ・情報機器 を使いこなせてる人と使いこなせていない人では 社会的にも経済的にも格差が出てしまう。ということです。 得意な人と苦手な人 改めて言われなくても誰もが既に感じてることだと思います。 国家・地域・個人・集団によっても格差が生まれてしまう。という問題。 「使いこなすこと」も大事で 「正しく使うこと」 も大事です。 また 正しい情報に辿り着ける人 と 正しい情報たどり着けない人が居ることも事実です。 上記で貧富の差が出てしまう。使える人は一般的に豊かになり 使えない人は貧乏になる。これは統計上で出てるようです。 乱暴に言ってしまうと 使えないと貧乏側に回ってしまう ということです。 安易な例えですが 使わなくなった洋服をメルカリに出して僅かでもお金に出来る人と 捨てるしかない人 どうせなら 使える側に回ろう。 会社のスタッフ全員が使える側に回るほうが 会社も絶対良いに決まってる。 もちろん得意不得意はあっても 少しでも使いこなせるほうが 上位に近づけるということになります。

創業90年記念日 90年に想いを馳せる

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昭和7年(1932年)5月7日 当社の前身 中江商店の創業日です。 今日はその90年目の日になります。昨年の暮に竣工式で内外に向けお祝いをさせていただいたばかりなので 90周年記念日ですが、今回は社内で簡単にお祝いと催しをさせていただきました。 何をしようか色々考えてみたのですが、創業当時の事を今いるスタッフに聞いてもらうのも良いかもしれないなと思い、叔父である古部さんと 清さんにお願いすると快く引き受けて下さいました。 父が居なくなり 母が認知症になって もう昔の話が聞けないようになると 不思議ともっと元気なうちに聞いておけばよかった!となるものです。「親孝行したい時には親は無し」とはよく言ったものですね。まさにそれと同じ感覚です。 1932年の時代背景はどうだったんだろうと調べてみると僕なりには2点大きなポイントがあるように思いました。勝手な想像なので実際とは大きな違いがあると思います。 1点目は 国鉄 印南駅開業が1930年。創業の2年前です。 これは遡ること170年前 1760年に英国・アイルランドでの産業革命が起こり 蒸気機関車が発明され 日本ではその百年後に 1872年 品川横浜間の 鉄道開業。その60年後 1930年ようやくこの地域にも鉄道が敷かれ 印南駅開業となりました。当時はこの地域はまだ船での輸送が中心で 一時的に紀勢本線の終点になった印南駅から印南港まではとても賑わったようでした。新地と言われた その中心地に家を建て小売業を始めたということです。 2点目は戦争。 第一次世界大戦(1914年〜1918年)時には本土が戦地圏外で輸出が急増して大戦景気で湧く日本だったが 戦争が終わると 戦後恐慌となり(1920年3月に起こった戦後恐慌は、第一次世界大戦からの過剰生産が原因である。 日本経済は、戦後なおも好景気が続いていたが、ここにいたってヨーロッパ列強が生産市場に完全復帰し、日本の輸出が一転不振となって余剰生産物が大量に発生、株価が半分から3分の1に大暴落した。)合わせて 世界恐慌(1920年代のアメリカ経済の好況の中で進んだ株式投資ブームの加熱などの状況。 1929年、その反動として起こった株価暴落が世界恐慌の引き金)が起き 1931年 満州事変(南満州鉄道爆破事件をきっかけに日本の関東軍と中国が激突した事件)や 1933年の国連脱退(満州事変に際

家族会 お疲れさまでした!

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家族会お疲れさまでした。 社内イベントを今までも色々やってきましたが 僕の中では前日までの準備段階の僕の想定と当日の出来上がり具合があまりにも違う不思議な仕上がりでした。当日はとても良かったと思います。 まさかあんなに沢山来てくださるとは思ってなかったので、準備段階で自分の中でも規模感がどんどん変わっていきました。 実際来てくださったご家族の方々がどう感じて帰ってくれたのか ご家族に来てもらったメンバーがどう感じたのか 今回 残念ながら家族が来れなかったメンバーが当日どう感じたのか いつも一緒に働いているメンバーのご家族と会ってどう感じたか?家族と接してるメンバーを見てどう感じたのか?とても興味あります。 皆んな大切なヒトに支えてもらって 支えながら お仕事に打ち込めてるんだな ということを感じました。 振り返り楽しみにしてます。 何もかも上手くいくというのも難しいですが お仕事とプライベート 片方だけ上手くやる なんてことは出来そうで出来ないので両方しっかりやってください。 昔お話しました 関係ないなんてことは無く 世の中は全てが関係しまくっている。全てが繋がってる。そういうことなので。。。。

なぜその選択・決定をしたか も共有しないと

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 先週末、封かん機が動き始めました。中古で購入だったので色々準備が大変だったと思います。使ったこと無いものを中古で購入するということはこういうことだ という事が良く解りました。 今日の話は先日話した 背景やバックグラントを知る事は大事という話に似てます。 その時の話は新人さんが入るタイミングで当人のバックグランドを知ることは大事という話でした。 封かん機設置でコンプレッサーからエアーを送るために配管するわけですが こう設置したほうが良いんじゃないか という話はしてましたが その根拠 その理由までは伝えてませんでした。 結果 業者とも相談して 現状の作業環境に最適な場所へ配置してもらって それはそれで良かったのですが 僕の考え方とは違ってました。 肝心な伝えてなかった根拠・理由は「設備は必要以上に現状に最適化しないほうが良い」という考え方です。 “設備”とは建物と繋がって動かせないもの。 簡単に素人が動かせないものは現状の作業に最適化しないほうが良いという事です。 宮ノ前ベースを建設する時も必要以上に現状の業務に最適化しないようにしました。 これはネットショップの現場は日々やり方が変わっていくからです。 我々のお仕事は日々柔軟に変化できる そんな設備が最適だからです。今、ネットショップと言いましたが、今の時代は我々の業界だけじゃなくて3年前と同じやり方をやってるような部分はどうかと思います。 ということで 今日伝えたかったことは 日々の選択や決定事項を共有するのはもちろん重要ですが その選択や決定に至った理由・背景(なぜその選択をしたか)も伝えていかないと 一つの生命体のようなチームには届かない。 決まったことだけ伝える そんなシーンが日々多いですが、それじゃなかなか浸透しない。そんなことを改めて強く感じました。

インプットだけでは力にならない。

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 今日の話は表現を変えて今までも何度もお話している内容です。 「教わっただけでは何一つ力にならない」 「教えない教え」 新人さんが数名入っていただいた事で今回は研修を色んな方が受け持つ形でやってくださってるようです。 今日もスケジュールを見るとぎっしり研修が入っててご苦労さまです。 色んなことをまずは覚えていただくわけですが 数日で大量にインプットする流れです。 たくさんの事を覚えてもらったり理解してもらったりという流れですが 実際は 研修をする側(アウトプット)と 受講する側(インプット)では圧倒的にアウトプット側の方の方が勉強になってるという話です。アウトプットする側が力になってる。 言い方を変えると ヒトは入力で力になってるわけではなくて出力しないと本当の力にはならない。  「世の中の社会人は9割がインプット中心の学びになってる」と言われています。 うちの会社は極力 一人ひとりにアウトプットの機会を作っていこうということでやってます。朝会もそうです。 今回の研修もそんな意味合いもあって計画してくれてるんだと思ってます。

5回目(5年目)の業績報告会を開催しました

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 直近2年間はオンラインでの開催だった業績報告会ですが、今年は感染対策もしっかりしつつリアル開催をしました。3年ぶりです。 事前に頂いている情報では リアル参加33名 オンライン約50名の合わせて83名でした。 オンラインイベントは何回か実施してますが 今回のようにハイブリッドでの開催は初めてです。 5回目の業績報告会と書きましたが、実際は春に開催するのが5回目でして 2009年頃から秋にナカヱ担当者会という名称で開催しておりまして、かれこれ10年以上 毎年業績をステークホルダーの方々にお伝えしているということになります。 ということで 春 桜が咲く頃の「業績報告会」、夏商戦を終えて「秋の文化祭」この2回は「社内外問わずチームワークを最も重要視する」という当社の価値観を最も体現している重要なイベントであると思ってます。 コロナ禍で我々の業界にもオンラインが標準になってきたことも含めもう少し踏み込んだ試みもこの春からスタートしたいと思ってます。 さて 2021年。 当社はというと 去年は大きな節目の年となりました。 この宮ノ前ベースの建設という大きな投資をいたしました。 建設に先立って 和歌山県、印南町と立地協定を締結頂き お越しいただいている 金融機関の2行にご融資を頂いて建築に至りました。 12月4日に行った竣工式 落成式には 業績報告会に 来ていただいている方々にも沢山お祝いに駆けつけていただきました。その節は有難うございました。 お陰様で1月から本格運用がスタートしまもなく三ヶ月になります。 この投資の効果ですが 直ぐに現れるところは見え始めていますし こういった催しを開催できたりするような 直ぐには現れない 見えない効果も 含め 期待しているところです。 2021年は当社 増収減益となりました。 また 2022年 今年は当社創業から90年にあたります。5月には創業祭を予定しております。この新たな拠点で心機一転 創業100年に向けての転換の年となるよう精一杯頑張りたいと思います。 秋の文化祭には 是非またお越し頂いて 終了後 懇親会を開催できるのを楽しみにしてます。

明日 業績報告会を実施します。

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 明日、業績報告会を開催します。準備して頂いてる土井・井上には慣れない中 宜しくおねがいします。 この2年はオンラインで開催していますが、それ以前 数年 リアルで開催していました。和歌浦のレストランでやったこともありますし 和歌山市のビックアイでやったこともあります。自社での開催が出来ないのでレストランや会議室を借りて 我々もそこに行って現地で開催してました。 ゆくゆくは自社でこういった催しも開催したい というのも僕の中にはあり建設時にはそのような事も考えて設計しました。 元を辿れば 1990年に第一回目のナカヱ会というのが最初です。1990年なので法人化して結婚した年です。父が色んな思いで開催したんだと思います。メーカー2・3社 問屋3社くらい来て頂いてたと思います。当時は取引先との懇親が主目的でした。 (写真は5回目開催で1994年11月22日) この会は5回くらいで ある事情があって僕が取りやめました。父はとても残念そうにしてましたが そのことについて僕にとやかく言わなかったです。 その後 長年そういったことを実施せずに 2008年頃 15年ぶりくらいに復活したのが「ナカヱ担当者会」いまでいう文化祭です。どういった経緯があって復活したのか覚えてませんが、2006年に社長になり僕自身もその必要性を感じて再開したんだと思います。 2010年の担当者会に父が叔父二人を連れて参加した時はとても嬉しそうにしていたのを今でも覚えてます。 2010年の担当者会の時に初めて楽天市場から担当者を招いてプレゼンをしてもらいました。このあたりから目的も少し変化してきて当社のことを理解していただくこと プラス ECのチャネルを理解いただくことも始まりました。 「社内外問わずチームワークを最も重要視します。」という価値観のもと(当時はまだ理念も価値観も出来ていませんでしたが)社外の方にも業績を発表していこうという事になったと思います。

背景・バックグランドを知ることは大事。

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実家に昔から木の狸の置物があります。小学校高学年か中学の頃には家にあったと思います。乾物のメーカーに記念品か何かで貰ったらしいです。 父親は この置物貰った頃から少しずつ利益出始めた って良く言ってました。 古い事務所の入り口にバラン(葉蘭)を観葉植物として置いてたのを 宮ノ前ベースに引っ越してから持ってきて植えたりしてました。事務所に置いてるときはコバエみたいなのが湧いたりちょっと厄介な観葉植物だなぁと思ってたわけです。 昨日 家内とここに来たときに そのバランは千葉県の市川の実家の庭に元々あったもので 義母が浅草橋に引っ越した時に持っていき 晩年、和歌山に引っ越した時も持ってきて 家のとなりに植えてたのを 再度 プランターに植え直したモノだったようです。 新人の山本が先週 色々研修を受けたのもそうです。時間がなくて出来なかった自己紹介もそう。この会社の昔の話もそうです。 バックグランドを知ると 背景を理解すると また違った見方になってきます。

伝統の正体

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先週、大学入学時に恩師から言われた言葉「ご縁」の話をしました。道ですれ違うだけも前世からのご縁という事です。 職場の皆さんとは 同じ場所で 同じ目標に向かって毎日 何年も一緒に お仕事をさせてもらってます。 そういう意味ではとても深い深いご縁があったんだろうな という事だと思ってます。 今日の話は縁があって入部した その当時 最初に自分が感じたことの話をします。 この話は大学を卒業して 学生を指導していた10年間によく学生に伝えていた話です。 僕自身 18歳で大学の部に入って 色々衝撃を受けたわけなんんですが、一番 カルチャーショックだったのが 当時 大学4年生というと 学生服を着てても かなりのオジサンに見えまして そのいい大人が 四六時中 弓の事ばかり考えてる。 ホントに情熱を傾けてる。関わってる大人の方々(指導陣やOB)も 皆 当然なんですが 当たり前なんですが 日本一を目指してて いい大人がです。これは とてもビックリしました。 日本一を目指すとはこういう事なんだな。 これが伝統の正体なんだなと思ったわけです。 実際は学年が上にあがっていく度に僕自身もこの伝統に押しつぶされそうな感覚になっていきました。 明日、うちの会社も新たなメンバーを迎えます。大なり小なり 従来から居る我々から刺激を受けると思います。 カルチャーショックを受けるほど いい刺激があると良いなと思ってます。

印南町と防災協定を締結させていただきました

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 3月11日 東日本大震災から11年目の日に 印南町と防災協定を締結させていただきました。 印南町内に用地を確保でき宮ノ前ベースの建築が進んできた頃から 今後何年後かに必ず起きると言われている 東南海大地震 など災害時には当社の扱いの商品は多少なりとも地元のお役にたつだろうとは考えていましたし いざそうなった場合、難しい面が色々起きそうだなというのは直ぐに想像できました。 業界では 特に飲料メーカーなどは あちこちで その日のために地域の自治体や県などと協定を締結されているのも見かけていました。 そんな経緯もあり 竣工式を終えた後 スタッフにも相談し情報収集もしてもらっていました。 ネット販売を開始した以降も 2011年の東日本大震災をはじめ あちこちで自然災害が起きたタイミングで売上が異常に跳ね 欠品が続出し割当出荷になったりと 我々が扱っている商品の災害時の必要性は簡単に想像できます。 また、東日本大震災のように広域で災害が起きた場合 全国で商品が供給不足となり 当時の状況で言うと仕入れた分だけ間違いなく売れる という状態でした。現地から距離を置いた西日本でのネット販売の場合ですとそういうことも可能でしたが 災害の当事者となって その時に多少お役にたつ在庫があった場合 どう対応できるのか?不安でしかありませんでした。 防災協定の締結をさせて頂いて 非常時に印南町が一括でご対応頂けることは我々にとっても有り難い事です。

袖触れ合うも他生の縁

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 3月初旬になると大学の部に入部した日のことを思い出します。 1980年3月11日 「集合日」と言います。 和歌山を出発する時に丸坊主にしてアパートに布団袋とコタツを日通で送ってもらって一人暮らしが始まりました。 今はもっと早いようで 昨日 新入生からメールがイッパイ届いてました。男女合わせて10名。テンプレート通りに監督コーチ陣に送信するように言われて送信してるんだと思います。 「お前らは縁があって法政大学弓道部に入る事になった。・・」 42年前、その集合日の初日に恩師から言われた言葉です。 この言葉は当時18歳の新入生の僕には印象的で同期の連中は今でも恐らく皆覚えてるフレーズです。 当時は字面でしか意味を理解できませんでしたが 僕自身この年令になって 恩師が初日のタイミングでなんでそんな事を伝えたか少し解ってきたような気がしてます。 先日 多田さんから来月入社のメンバーの紹介がありました。 ご縁は 切っていくものじゃなくて 繋いでいくものだと思います。 昔から「袖振れ合うも他生の縁」という言葉があります。 “袖触れ合うも” は 道ですれ違う という意味 “他生の縁” とは 前世からのご縁  という意味だそうです。 道ですれ違うだけでも前世からのご縁という考え方ですが、その考え方でいうと 同じ職場でお仕事を一緒にやるというのは 深い深いご縁だと言えます。 皆がお互い良いご縁になるようにしたいモノです。

2021年の振り返り

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遅ればせながら自分自身の去年の出来事を振り返ってみます。 3点 1.なんと言っても 宮ノ前ベース建築です。 用地取得は前年でしたが 規模の検討や設計デザインから建築スケジュール、金融機関からの融資、県・町との立地協定締結、地元対応、各種設備配置 検討・投資、進入町道工事、神事、竣工式・引っ越し、様々な契約。補助金助成金申請。初めての事だらけで皆さんに協力してもらいながら完了。 2.組織変更(ECに参入して20年近くチーム編成のみの組織から昨年は戦略室構成もプラス) 3.朝会継続とブログ継続 残念だったのは何よりコロナ禍で色んな事が出来なかったり リアル開催できなかった。あちこち出張に行ってもらえなかった。ステークホルダーの方々に来てもらえなかった (文化祭・展示会出張・業績報告会・シャッフルランチ・カレーランチ・全体ミーティング・忘年会新年会、歓迎会・室飲み会・女子会、BBQ。お客様イベント)