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4月, 2023の投稿を表示しています

仕組みやルール・マニュアルはその時の状況に合わせてアップデートしよう

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 何回か前の朝会で「判断の基準」の話をしました。ルールやマニュアルを守ることも大事ですが それ以前に人として正しいと思うことを優先したほうが良いという話でした。 今日も似たような話ですが、先日から倉庫にハエがたくさん出てくる季節になってます。フォークリフトや台車で踏んで潰すと更に掃除しにくくなるので大変です。実際に掃除をやってみると割とたくさん倉庫内にありました。 聞いてみると倉庫の掃除の仕組みが以前の名田の頃からの仕組みを採用していてエリア毎に順番にやるので なかなかそのエリアの順番が回ってこないという事でした。 そもそも掃除の目的は 衛生面の向上・環境美化・安全性向上なので これはどんな事が起きているかと考えると ・まず現状の仕組みでは掃除の目的を達成できていないということ ・ルールやマニュアル通りに日々やってるだけでは目的は達成しないということもある ・日々 気になっていて気がついていても自らなかなかマニュアル以外の行動は出来ないということ そんな事が現場で起きているんだろうなと考えます。 2つ言えるとしたら ・ルールやマニュアルはその時の状況に合わせてアップデートしていかないとだめだ。 ・ルールやマニュアルは絶対ではない。そのばその場で対応しないと目的は達成できない。 これ(倉庫の掃除)って見えやすい案件だから例にあがりましたけど こういった事って至るところで起きてると思います。 状況が変化しているのに仕組みが従来のまま。 ルールや仕組みが目的と合っていない。 ルールやマニュアルに縛られているだけで考えない組織。 お互い気をつけましょう。

御坊青年会議所での30代の頃の話

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このネットの商売にも繋がるキッカケになった30代の頃の話をします。 青年会議所という団体がありまして、当時 僕も所属してました。ご存知ないと思いますが、全国というか世界的な組織で この御坊日高郡にも御坊青年会議所というのが 今から55年前からあるわけなんです。年に数回地方紙に活動が掲載される程度なので存在を知らない方が多いと思います。 県内にも各地域に現在7つあります。僕らの頃は串本地区にもあったので少し減ったかもしれません。 この組織は40歳になると卒業で僕も10年近く所属してたと思います。入会は結婚した翌年1990年 28歳の時です。きっかけは当時 石橋石油の社長さんにご紹介いただきました。 社会貢献の団体ですが、その活動を通じて色んな事を学んだり学生時代とは違う友人ができたり。 当時は色んな面で大変でしたが 今になって思うと入会させていただいて良かったなと思います。 活動は基本 月に委員会や例会 理事会 があってなんだかんだで週一程度仕事終わりに参加出席するような活動頻度でした。 同世代の経営者同士が集まってる中 社会に出ると色んな方が居るなぁと思いました。元気のいい方 や 羽振りの良い人 お金の使い方の綺麗な人 や 弁の立つ人 付き合いのとても良い方 人を巻き込んでいくのが上手な方 面倒見の良い方 色んなリーダーシップの形も勉強になりました。 頻繁に会合がありましたので そんな同世代の社会人の色んな違いを感じる僕にとっては数少ない機会だったと思います。 組織の中の色んな役割や組織づくり 議事や会議の進行、イベントやプロジェクトの進め方 なども学んだように思います。 学校に行っていた時の勉強ができる優秀な人 やスポーツで優秀な人 とはまた違う 社会に出て組織の中でリーダーシップを発揮して仲間の中で信頼を得て中心になっていく人が居るわけです。 社会に出てからの優秀さとはどういう事なんだろう?と自分の中で考える機会が多かったように思います。  そんな色んな学びもありましたが 飲んだり食べたりも頻繁にあって 当時の僕の安いお給料で小遣いも少ない中 使えるお金はほとんどそちらに消えてました。随分家内にも迷惑かけたと思います。そんな感じなので どちらかというと会員の中でも貧乏で付き合いの悪い部類だったと思います。 詳しい話はすっ飛ばしますが、そんな通常でも活動が多い中 

業務に熱中してた頃の話

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次のお題が「熱中してた話」ということなので僕は「熱中してた頃の話」をします。 その時々で色々熱中してた頃があるんですが、お仕事で言えば 現場のお仕事をやってる頃が何と言っても熱中していたかなと思い出します。。 社長業も熱中しないとイケないんでしょうけど現場の事を最前線で色々やってたときが面白かったという意味で当時の話をします。 出店してから2004年くらいまでが MAXだったかもしれません。30代後半から40代。調べてみると楽天がプロ野球に参入したのが2004年です。 ・一つは自分で全部出来る 分業をしないでも全て指示できる頃だったとおもいます。 ・認知されていない市場で商売をやってる というワクワク感もありました。 ・先陣が居なかった。 楽天の集まりが年に数度その頃もあったと思うんですが 行くときはワクワクして参加していた記憶があります。 業務をどう効率化するか?というのもスタートしたばかりで今と比べると当時は幼稚な仕組みでした。なので効率化のポイントも膨大にある。 仕組みにしろ先陣が居ないので何もかも自分達で作らないといけない。 しかも一つ手を打てば大きな効果もある メールも今ほど埋もれてしまう時代では無かったので メールでアクションを起こしてもお客様からの反応もとてもある。 一つ当たるとそれまでの商売では考えられないくらい売れた。 そんな熱中してた頃がありまして その次にくるのが2005年くらいからグラフを見ても解るように売上が跳ねてます。3億の壁を超えて問題が噴出してくる時代に入ります。

祖父 竹雄のこと

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昨日 祖父の17回忌の法要をしました。 僕から見た祖父の話をします。 明治40年生まれなので計算してみると 僕が物心ついた子供の頃 ちょうど今の僕くらいに年齢だったようです。 区長かなんかやっていた時だと思いますが、印南町の役場の町長室に子守がてら僕を良く連れて行ったらしく そこでオシッコを漏らした話を良くしてくれてました。 高校の時 弓の大会で優勝して賞状を貰ってくると誰よりも喜んでくれいたのも祖父でした。 孫だったので距離はとりつつ とても可愛がってくれてました。 信仰心の厚い人で 人のお世話をしたりしてる印象が強く 商売を熱心にやってたイメージは僕は 無く 当時 お豆腐を朝早く母親と作っててそれが終わると商売には関わってなく商店街や商工会の役をしてたのか そんな印象でした。 以前も話しましたが 戦争に行った話をよくしていて 歳をとると大昔の話ばかりすると思ってましたが今から考えると20数年前の話なので 当時は戦争もそんな大昔の話じゃなかったんだなと思います。僕がネット販売を始めた頃の話をするのと同じです。。 父から聞いてる話でもあまり商売に情熱を傾けた感じではなかったかなと。。 それには時代背景もあったのかなと想像してます。。 昭和7年に結婚して 世界恐慌 満州事変 国際連盟からの脱退・日中戦争から 第二次世界大戦へと進んでいって 終戦を迎え 終戦の翌年 昭和21年12月に昭和南海地震による津波災害を受けました。 その5年後 昭和26年には すでに父は18歳となり働きだしています。 その後 昭和28年に紀州大水害に見舞われ、昭和37年に又 集中豪雨での水害に見舞われてます。水害の度に商売も大きな損害を受けたようでした。 僕から見たそんな祖父でしたが つい数年前に叔父たちから祖父と父の確執を聞いて 僕から見えていた祖父や父は 叔父たちから見ていたそれとは随分違ってたんだろうなと改めて感じました。 先日 新人研修で ひとつの出来事も人によって捉え方は様々ですよ という話をしましたが 出来事だけではなく 一人の人 それが家族でも人によって捉え方は様々ですね。 僕から見てる皆さん一人一人と 同僚として見てるそれぞれ 先輩と見てるそれぞれは色んな見え方がしてるんだろうなと思います。